病院に洗濯物を届けに行った。
おむつをしているらしいが漏れてズボンまで汚してしまいズボンが間に合わないらしい。
ん?そんなオムツがすぐに漏れてしまう物だろうかと思った。
病院で看護士さんに話を聞いたら、保護室に入るのは夜間だけで日中は閉鎖病棟内を自由にさせてくれているらしい。
ああ・・歩き回るから漏れるのか。
逢っていいものだろうか?と聞いたら、「今日は逢ってもいい感じだと思いますよ」との返答が来た。
今日はか・・・・
この病院は意外と開放的で入院患者さんとよくすれ違い挨拶をされる。
この少し特殊な空間で知らない人同士でも挨拶は大事だと感じた。
少し奥めいた所に
こんな感じの面会室がありそこから閉鎖病棟に電話すると施錠されたドアが開き看護士さんが来る。
これよりも頑丈なドアだがこんな感じ。
そこを見ると父が窓から覗いていた・・・
面会室でと思われたが中に通された。
父は色々まだ謎めいた事を言っているが、私の事を認識しているように思える。
顔の血色もよく、肌もスベスベで健康そうだった。
病院の管理がとても行き届いてるように感じたが、それと私の心は別物だったよ・・
「今までのお父さんとは思わないでください」と言われた。
色々話してくる父にうなづきながら、「ごはんおいしい?」 おいしい。
「楽しい?」楽しい。「良くして貰っている?」うん、良くして貰っている。との会話が出来た。
この時、私の中の何かが少し楽になったのと、何かが少し壊れたのを感じた。
歳を取った親の面倒がどれ程大変かそしてどれ程お互いを傷付けていく事が有るかを知っているが、それを「仕方ない」という言葉で落とし所を付けるのにはまだ時間が必要のようだ。
たぶん他人に「仕方ない」とか「どこもそうだよ」とか言われたら月まで飛ばしてやろうかと思うくらいやるせない気持ちで一杯になるよね・・・
その言葉は自分で落し処を付けるときに使う言葉で、今は言われたくないな・・・・・
洗濯が大変でしたらと洗濯系の業者の契約書を渡された。
机に置かれたその契約書を父が子供のような眼でみていじくって遊んでいるのが辛かった。
月に1万8千円のコースを進められたが破産してしまうので、ズボンを買ってくる事にした。
面会の最後に施錠されたドアの窓から父がドアをガチャガチャさせながら私を見てる様子が
我慢の限界を超えさせた。
看護士に一礼して足早にそこを離れた。
面会室で待っていた連れは「あ~あ、、、ボロボロにされたねぇ~」という感じで私を見ていたが、そこには私を見て察したのか涙が浮かんでいた。
一連の話をして、ズボンを買いに行った。合計13本買った。
どれが正解なんてない話を何回も堂々巡りしながら心が受け入れる事が出来る日を待つしかない。
でも、私は父は連れや父の友人達に、ある意味守られているんだなぁ・・・と感じた。
次の日に洗濯物と新しいズボンを病院に届けた。
そしてまた追加のズボンを届ける旨を伝えた。
今日は面会はしないで帰ったが帰り際に病棟のドアを見たら父がこちらを見ていた・・・・・
そういうの心に刺さるから辞めて・・・・w
この行き場のない憤りが一歩間違うと心をとても蝕むものになるのだなと思いながらも、こういう感情も人として大事なものなのだと思う。
知っているかい?親は敬うという当たり前のことだが。最低の親も最低の子供も存在するって事を。
そういう人達を私は知っている。
だから親を敬うって事を感じれる人は親が育ててくれたことの一つが自分にきちんと伝わっていて、伝わっている人も親の意志がきちんと伝わってるって事なんだ!
そういう心の中に親やご先祖様は教えとして生きているから離れていても、たとえ死んでも寂しく思う事はないんだ!
とか坊さんみたいな事を言ってみる。
しばらくはこの憤りの感情と同居か・・・・
連れと未来の自分に放り投げ・・・・・w